散らばっていた自分のかけらを取り戻す✨

いままたこれ!

悲しいなら
無理に明るさだけを見ることはしない

だからと言って
悲しみにはまりもしない

わたしには
喜びも楽しみもある

どちらもあらしめる

全体であること✨

散らばっていた自分のかけらを
取り戻す

それをやっています😃

-以下、Manish Kazuo NukiiさんのFacebook投稿から引用-

Osho/「祝祭とは感謝だ」

幸せはひとつの極、
悲しみはもう一方の極だ。
至福はひとつの極、
惨めさはもう一方の極だ。
生は両極を含んでいる。
至福だけの生には、
横への広がりはあるが、
深みがない。

悲しみの生には、
深みがあるが、
広がりがない。
悲しみと至福の
両方からなる生は
多くの次元にわたる。
それは同時にすべての
次元のなかを動く。

仏陀の彫像を見てごらん。
あるいは時々、
私の目をのぞき込んでごらん
― あなたは両方を
同時に見出すだろう ―
至福、平安、悲しみもだ。
あなたは悲しみを含んでいる
至福を見出す。

なぜなら、
その悲しみが至福に
深みを与えるからだ。
仏陀の彫像を見守ってごらん
― 至福に満ちている、
が、それでいて
悲しみをたたえている。
<悲しい>というまさに
その言葉が
あなたに何かが悪いという
間違った連想を促す。
これはあなたの解釈だ。

私にとって、
生はその全体においてよいものだ。
そして、
生をその全体において
理解するとき、
そのときにのみ、
あなたは祝うことができる。

さもなければ、
だめだ。
祝祭とは、
何が起ころうとかまわない、
私は祝う、という意味だ。

祝祭は、「幸せなら祝おう」とか、
「不幸せなら祝わない」というように、
ある決まったものごとに
条件付けられるものではない。
祝祭は無条件だ。

私は生を祝う。
生が不幸せをもたらす

― けっこうだ、私はそれを祝う。
生が幸せをもたらす
― けっこうだ、私はそれを祝う。
祝祭が私の態度であり、
生が何をもたらそうとも無条件だ。

しかし、問題が生じる。
なぜなら、
いつであれ私が言葉を使うと、
それらの言葉があなたのマインドに
連想を引き起こすからだ。

私が「祝いなさい」と言うと、
あなたは、
人は幸せで
いなければならないのだ、
と考える。

悲しいのにどうして祝えるのか?と。

私は、人が祝うためには、
幸せでなければならない、
とは言っていない。
祝祭とは、
何であれ生があなたに与えるもの、
何であれ神があなたへ与えるものへの
感謝だ。

祝祭とは謝意だ。
それは感謝だ。

あるスーフィーの神秘家が
とても貧しく、
空腹で見捨てられ、
旅に疲れていた。
夜になって彼はある村へ行ったが、
その村は彼を
受け容れようとしなかった。
その村は保守的な人々の村だった。
そして、保守的な回教徒が
いるとなると、
説得するのは非常に難しい。
彼らは町の中の、
雨をしのぐ小屋さえ
与えようとしなかった。

夜は寒く、
彼は空腹で、疲れ、
着るものも充分になく、
震えていた。
彼は、町はずれの木の下に
坐っていた。
彼の弟子たちは悲しみに
うちひしがれ、
意気消沈し、怒りさえ覚えていて、
そこに坐っていた。

すると、彼は祈り始めた。
神に向かって、彼は言った。
「あなたは素晴らしい!
あなたは常に、何であれ、
私に必要なものを与えてくださる」
これはあんまりだった。

弟子の一人が言った。
「ちょっと待ってください。
それではあまりにも言いすぎです。
とりわけ今夜は。
その言葉は偽りです。
私たちは空腹で、疲れ、着るものが
ないないというのに、
冷たい夜のとばりが降りようと
しているのですよ。
そこらじゅうに、
野生の動物がいるのに
私たちは町から拒絶されているのです。
私たちには小屋さえありません。
あなたは何に対して、
神に感謝の念を
捧げているのですか?
<あなたは常に、何であれ、
私に必要なものを与えてくださる>
というのは、どういう意味ですか?」

神秘家は言った。
「そのとおりの意味だ。
私はもう一度、繰り返す。
神は、何であれ、
必要なものは与えてくださる。
今夜、私には貧しさが必要なのだ。
今夜、私には拒絶されることが
必要なのだ。
今夜、私には空腹になることが、
危険にさらされることが必要なのだ。

さもなければ、なぜ神が私に
それを与えなければならない?
それは欠かすことができない
ものに違いない。
それは必要とされている。
そして、
私は感謝しなければならない。
神は本当に素晴らしく、
私に必要なものの面倒を見てくださる。
神は実に素晴らしい!」
これが、状況にかかわらない態度だ。
状況は関係ない。

祝いなさい,
どんな場合であろうとも。
もし悲しかったら、
あなたは悲しいのだから、
祝いなさい。

これが錬金術の何たるかだ。
― 卑金属を
より質の高い
金属に変えることだ。

悲しみ、
怒り、
嫉妬
こうした卑金属は
金に変容されうる。

Osho













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