自由になる〜。

わたしはあなたに生きてほしい、

生きてわたしを愛してほしい

それはエゴなのかもしれない

でもでも

人間だもの

そう思うわたしをゆるそう

愛そう

あなたが死ぬことをも

ゆるせる自分になれたなら

わたしも

どんな選択もゆるされる、

ということなんだね

つまりわたしは

自分をゆるしていなかったんだね

どんなわたしで居ても

いいんだよ

何を選んでもいいんだよ

わたしは生きることを選んだ

それはほかの人が

決めたことじゃないはずだ

次回zoom音声でのハート瞑想イベント

7月26日 ハートによる変容

https://resast.jp/events/461414

愛の目の瞑想 その2

前の話から続いてます⇒ 愛の目の瞑想

こうしてハートを感じることで、わたしのアタマ、つまりマインドの使い方はだいぶ変わって来たようです。

そうして少しずつハートに入ることが出来るようになっていきました。

すると少しずつ

この世は生きにくい、

居心地がわるい、

わたしの居る場所がない、

というフィーリングから

安心感、自分の居場所はあるのだ、という感覚が生まれてきました。

 ここに来てよかった✨

という感覚。

やっとほっとしてよいスペースにやって来たのです。

そして

瞑想を始めてみて数年の時点で気づいたのは〜

わたしに必要だったのは

「感じすぎる」のを感じなくすることではなくて

逆に「もっとしっかり自分を感じる」必要があったのでした。

驚きでした。

わたしは「カラダやハートでたくさん感じていたこと」を、

「感じない」ように頑張っていたのです。

「気づかない」ように麻痺させようとしていたのです。

なんてことでしょう!

自分の状態を

ありのままに感じる、

というのはわたしにとって

かつてはとてもむずかしいことでした。

それはこんなことです。

きょうのハート瞑想イベント「愛の目の瞑想」のワークの中で、まずは鏡でいつものように自分の顔を見てみました。

 ・・・

 眉間にシワが寄っています。

顔にできたシミや、髪の乱れやら、

白髪やら、と気になりすぎます。

 改めて普段どれだけ鏡を見るとき自分を批判的に見ているか、に気づきました。

そもそも思春期のころはともかく、最近では身だしなみチェックのために鏡を見るだけでした。

この批判的見方で自分から失われていたもの。

それを「愛の目」で鏡を使って自分自身を見ることで気づいたのです。

批判的に見るとなにが起こるか?

自分の要らない部分を分割しよう、切り離したい、という思いが生まれます。

この鏡で普段自分を批判的に見ていたのと同じように、

自分のすべて、そして自分に起こることや周囲を厳しく

批判的に見ていたことに気づきました。

当然見たくない

感じたくない

エスカレートして麻痺させたい。

そんな風になっていたのです。

(続く)

前の話は⇒ 愛の目の瞑想