天草の旅 そもそも。
大学時代ともに
歌ったサークルで一緒だった友人との
久々の旅✨
白金のチャペルに響く
フォーレのレクイエムに
大学入学してまもなくのわたしにとって
「いつかこんなうた
うたってみたいな~」
という思いが自分の中にあったことを
確認させられたものだった。
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その後変化、
というか
そもそもがコレだったのでしょう!
となったカンテ フラメンコとの出会いは
そのかなりあと。
社会人となってから
バブルの時代に
さまざまな音楽に触れ
あの頃世界中から
生身でやって来たものを
どんどんと聴きに行き
自分の体感に合うか
チェックした20代後半
そんなプロセスを経て、の出会いだった。
で、共に天草を旅した彼女は
大学時代のサークル仲間のひとり。
熊本から神奈川県内に
お姉さんと住んでいた彼女の家は
大学にはなかなか遠い自宅から
通学するわたしの
強い味方になってくれた。
ありがたい。
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そして夜遅いときのみならず
たびたびわたしは
彼女の住むアパートに入り浸っていた気がする😳
そのきっかけは いろいろだったと思うが~
よくあったのが
こんなお誘い✨
「ねー。
熊本から母が馬刺しを送ってくれたから
食べに来なあい?」
「球磨焼酎飲んだことあるぅ?」
「この前話した辛子レンコンって、
こういうんだよ。実物来たよ!」
思い返せば食べもの、また食べもの!
である。
学生時代当時
そんな魅力的な誘いを断ったことは
一度もなかった、ように思う🙄。
そして
その後2005年。
彼女からこんなお誘い
「ねぇ💓
もうすぐマンゴーの時期になるよ。
ウチの庭にたくさんなるから
いっくらでも取っていいよ~✨」
まんまとこのハナシに乗せられて
わたしは マレーシアはボルネオ島から
さらに飛行機に乗って飛ぶ経済特区でもある小島
「ラブアン」
に一週間近く滞在したのである。
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彼女とだんなさんと
当時5才になるかわいい女の子
もちろん初めてのラブアンも
彼女達の
意外とフツーな⁈
暮らしぶりを垣間見たのも
なかなか得難い経験だった。
/
そう、
彼女は熊本で働いていた会社での
職場結婚で
マレーシアの人と結婚したのだ。
そのハナシを最初に彼女から聞いたのは~
また別の長崎の友人の結婚式に出席した
機会に皆で行った
熊本は阿蘇での旅の宿だった✨
(今回はそれ以来、20年ぶりくらいの
熊本への旅なのだ)
/
当時仕事が忙しく
無理矢理会社を休んで行ったわたしは
寝る間も惜しんで
会社に後でFax送ろうと
原稿用紙に鉛筆でレポートを書き書き
していたところ~
そう、あの頃は
こんな場合鉛筆ナメナメ、なんてしてた。
パソコン持ち歩き、なんてありえなかった。
メールもなかったと思う。
彼女が「お茶入れるよ~お茶🍵」
と悠長にいつものおおらかノンビリ調子で
(それが彼女の真骨頂)
何度も話しかけて来て
「なにぃ?
今いっそがしいんだけどおおお!」
と血走る目で余裕ナシの
わずらわしいわね!モード全開な
わたしの態度にも関わらず
重大なハナシをはじめた。
/
そしてその
結婚するぞ😳😳😳❣️
報告に
あまりにビックリして
書いていた鉛筆はボキリ!と折れ、
何を書いていたかすっかりわからなくなって
終了。
「しかもトシシタア⁈
ハッサイもおおお⁉︎」
今よりたぶんかなり
アタマの固かったわたしは
温泉宿の浴衣姿で
雄叫びをあげたものだった。
「えええっ?相手はマレーシア人‼️」
/
そんな彼女達の暮らしぶりに
初めて触れた2005年の旅✨
それ以来まったく会わなかったわけでは
ないが、
泊まりがけでふたりで会えた
貴重な今回なのだ。
/
成田第3ターミナルから乗った
ジェットスター機を降りたってしばらく
空港には彼女の
ご母堂さまも一緒に迎えに来てくださった。
御年80歳✨
この方が送ってくれた数々の
美味しいもの✨✨✨
が今のわたし達を繋いでくれた、
と言っても過言でないわけだ。
/
当時今のわたし達より
ちょいお若かったのだ、
なんて思いながら
今回初めて
ちゃんと⁈おはなし出来たのは
なんとも感慨深かった✨✨✨
(その4 へつづく)