「イタリアで見た過去生と直後の事件」カテゴリーアーカイブ

3年前の左腕激痛といま✨

3年前のきょう✨
これを書きました😃

この数年前から今に至るまで
外側の旅
内側の旅が
続いています✨

こんな激しい痛みは今はありません。
当時は、これは何なのか
何が起こっているのか
わからなかった。

そして「なぜ」を
追求してもわからない
追求してもはじまらない

そういう時ってある

まさしくあれは
そういう時

追求しても
ただジャッジしたり
責めたり
になってしまう

ただそこにあるものがあるのは
何か理由があるのだと
それが何かすぐにはわからない
こともあるのだと

信頼することだと

今つくづく思います。

この3年前の頃
今の人生に大きな影響を及ぼしている
不調和をひきおこしているものが
掘り起こされ😳

そしてそれがあるからこそ
今ある才能が花開く
過去からの贈り物✨✨

それに今は気づいています。

サトルボディヒーリングのセッション、
常時提供しています✨✨

ご興味ある方
お気軽にお問い合わせくださいませ。

サトルボディヒーリングとは?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

これはここは半月間の左腕激痛日記。
イタリアスペイン日記になかなかたどり着きません。

突然の左激痛から20日経過。

『これはもう癒やされる、回復する』
という感触を得たのが昨日。
ようやく。
ヨカッタ❗️

ピークは12月第1週、ほぼ5日5晩。
真夜中の訪問者⁉︎
ナゾの左腕ナシのような状態、力入らず脱力、麻痺したような感覚、と共に居た。

それは夜中1時頃やってくる。
「これはジブンの腕じゃない』
という感覚。

右手で触ると鉛か何かを触っているようになっていく。
右腕で左腕を持ち上げない限りは全く動かない。
姿勢によっては激痛。

夜中3時。
寝ている姿勢では痛みに絶えられなくなり、リビングの椅子に座る。
朝までそのまま。
一睡も出来ず。
気がつけば声をあげている。
呻き声。痛さのあまり。
ここは戦場か⁉︎という気さえした。

痛み止め、もちろんある。
医者、もちろん行った。
しかし何をやっても効かない。

この感覚を痛いというのかどうかさえわからない気もした、とにかく苦しい。

これが毎晩、一生続いたらどうしよう!
何度もそう思った気がする。
あの時あの痛みより、先のことを考えた時の不安感。治ると信じなくてどーするのだ!という気持ち。

『これまで生きてきて全てのケガ、病気は治ってきたではないかあ!』
『だからぜったい大丈夫!!』
としかりと信じていた、とは言いがたい。

ただ毎晩、
同じ時間に同じ調子でやってくる訪問
に『いやあ〜、今晩も来ましたか。いらっしゃあ〜い!』
というキブンにだんだんなっていった。

招いた覚えはないが、わたしのところにやってくるお客さん。

なにが言いたいのかな
それをこれまで
よく聞いてなかったのかもな、
では今聞こうか、
というキブン。

何せ相手はジブンのカラダ。
何も抵抗せずに感じてました。
ようやく生還。

明日も続いたら、何か対策施そう、
医者でダメならアレとか、コレとか。
と、考えました。

色々教えてくださった皆さま、ほんとにありがとうございました。

結局苦しさピークの時は何もせず、の選択をしました。

そして一昨日、サトルボディヒーリングのインターネットクラスにて、皆さまからの遠隔ヒーリングを受けました。そして昨日、回復を自覚したのです。

サトルボディヒーリング、ほんとに気づきと癒しが促される素晴らしいワークです。

また『見る苦しさ伴わずにラクラクになれる表面ハッピーワーク』でないことも痛感。

そのかわり表面をいじったのでなく、
深いところから自分に触れたものは
『また元に戻ってしまった!』
という思いをせずに済む。

ほんとうに気づいたことは、
それがもう過去のことなら、
また同じ繰り返しが出来なくなる。
という自信と信頼があります。

この痛みの始まりも11月末サトルボディヒーリングクラス受講の前日から。

半月以上(イタリアからだから実は2か月、とらえ方によっては昨年イタリアからだから1年以上だけど)のプロセスが終焉に向かっています。

激痛中の頃
近所の本屋さんにて沢山並んでた、水木しげるさんの本をパラパラとめくりました。

戦争のこと、たくさん漫画や本に書いている水木しげるさん。
偶然開いたページが、ラバウルで左腕落とすことになった場面でした。

負傷のあと、
軍医が左腕切り落とすまでの痛み
が『世の中にこんなに痛いことってあるのかしら』とあり、
いざ切り落とす時には『もはや痛くもなんともなかった』とあり、
なぜか『そうだろう、そうだろう!!』

と共感、理解した気になってしまいました。
ほんとに腕落としたヒトの苦しみには、ほど遠いのでしょうけれど。

タイ瞑想旅行記2017-18❼もう恐怖は去ってよい☆スターサファイアで突然の発見☆

うー😳
コレは大事なモノか 要らぬ荷物か⁈

このところ
目の前のモノ、だけでなく
何もかもを判断しつづける毎日。

先月誕生日に冷蔵庫壊れて以来
断捨離に次ぐ断捨離
せまられる。

15年使用した冷蔵庫の入れ替え

自分の歯のアマルガム除去
(どうにも痛くなったから 必要にせまられ)

築40年 マンションの
排水管の切断伴う1日がかりの大清掃

アマルガム除去は思いのほかの
大がかりで
放射能汚染物質を取り出すかのような
防護。

この時のマスクと防護メガネで
また 昨年タイ帰り飛行機での
閉所恐怖を再発。

昨年10月タイの前には

3年前イタリア サガプリヤの元での
スターサファイアコースを受けたあと

結局そのコースを受けに行った目的であった 内なる男女の戦いの理由~
そこで見た過去性を体現するかのように 
ローマのドロボーに殆どをうしない

その帰りの飛行機で最初の閉所恐怖
が下地にあった。

わたしの怖がりぶりに
「マスク使用せず」の歯医者さん英断
さらに歯2本の除去作業を一本だけで中断。

来週末、11月18日からタイに瞑想に行く決断したばかりのところにコレだ。

どうしようか、と途方に暮れる。

その数日後
スターサファイア エナジーワーク
ギバーのコースにヘルパー参加の機会あり。

ヘルパーと言いつつ
自分自身の内なる男性性と女性性も
とくと見る👀👀👀

ココでまさか閉所恐怖について
答えが出るとは思わなかったのに‼️
なんてこった!

その少なくとも一端、もしかしたら大部分が
判明😳😳😳😳😳😳😳

理由は
レイコの男性性のとんでもないほどの使命感
によるプレッシャーからだったのだ‼️
(つづく)

イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その27

3日間のローマから日本帰国までの奮闘記
の後日談ーその4、である。

ハナシは後日談その2(=トータル その25)
からこちらへ続く。
(前話その3は、その日その前のFlamenco体験です)

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✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
鎮痛剤まったく効果ナシの
この劇痛!

また真夜中になれば
やってくるのだろうか?
夜が来るのが恐怖だ。

とりあえず医者の言う
検査を受けるしかないだろう。

受けるのはCTスキャンではなく
MRIだった😳。

どちらも筒の中に入って撮影、
というイメージだったが、
MRIは時間がかかる。

筒に入っている時に
音もかなりうるさいらしい、
と聞いていた。

翌日また医者に行って
鎮痛剤はまったく無効、と告げ
その足で検査機関へ。

検査場にて。

うわあーっ。
この筒に入るのかあああ😳❗️

首を撮影するのだから
顔も筒に入ることになる。

いやだなあ・・・

「中に入ると うるさいので
これを使ってください」

と、ヘッドホンみたいのを渡された。
やっぱりうるさいんだあ。

そして〜。
「何かあったらこのボタンを
押してください」

ゴー。
筒に入る音だ!

即座にボタンを押した。

こんな狭いところに、
密閉感のあるところにとても入れない‼️

ローマからの帰路、
成田まであと1時間時点での
あの強烈な恐怖を思い出した!

わたしは閉所恐怖があるのだと、
ようやくこの時気づいた。

結局 検査着を着て脱いだだけ。
何もせずにもとの医者に戻ってこれを報告。

医者は
「・・・では様子を見てください」
というしかないのだろう。

もう万事休す、か?

ところでその翌日から
ハート瞑想をベースに
cakraのエネルギーに働きかける
サトルボディヒーリング、

わたしはこれのギバーなのだが
そのコースの再受講をする予定であった。

しかしこの調子では受講出来るか
どうかも危ぶまれた。

翌朝、奇跡的に起きれて
とにかくサトルボディヒーリングの
コース会場、鎌倉に辿り着く。

ただチャクラの前後に手を置く。
これが今の自分には
痛くてなかなか出来ない。

ふだん居るセドナから
日本に来て、このコースを教えている
プラサードとアルヴィナ。

ティーチャーである彼らに事情を相談した。
わたしが予想したアドバイスは
「無理するな、やめとけ」

後から思えば予想というより
そう言って欲しかっただけ!

意外にもプラサードは
「出来るだけやってみるとよい」
で実際、瞑想しながら進むと
手もそれなりに動いたのが不思議だった!

しかし痛いものはやはり痛い‼️

3日目、パートナーと組んでヒーリングを
受けるとき、
この左腕の痛みは絶頂。

あまりにわたしが痛がっているので
パートナーはプラサードに
「やめた方がよいか?」
と相談しにいった。

サトルボディヒーリングは、ハートチャクラの受容性、そしてシンクロ二シティのスペースをベースにしているからこそ
パートナーの働きかけも有効になる。

適切な判断もハートからやってくる。
それはいつも 今この時に必要なことを示してくれる。
わたしはそれに全幅の信頼を
置いている。

それでもわたしの
「痛い痛い‼️」の派手な訴えに
パートナーはプラサードに判断を相談した。

この時、やはりプラサードは
「痛くても働きかけてOK。
腕はハートに繋がっているのだから
これはハートチャクラに
起こっていることだろう。」

やっぱり!😳😳😳
が感想だったが
痛いんだから、やめとけ、
と言って欲しかったジブンが居る。

わたしの痛みに触らないで!
これ以上刺激しないで!

という気持ちと
この痛みに変容をもたらしたい気持ちと。

しかし、あの筒に入るような恐怖
とはちがう。

ジブンの痛みを見る恐怖だ!

わたしはジブンのハートに聞いた。

やってほしい。

それが答えだった。

(その28に続く)

前のハナシは
上記メニューより
「イタリアで見た過去生と直後の事件」
にお願い致します。

最初のハナシからの場合は⇒ その1へ

イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その26

3日間のローマから日本帰国までの奮闘記
の後日談ーその3、である。

前の投稿(その25)で夜中に痛み到来前。

この日は楽しく Flamencoのエッセンス、伝統的なFlamencoを今に伝えるZorriおじさんのハナシを聞いていた。
(2015年11月のFacebook投稿加筆です)

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

ブレリアの使者Zorriおじさん。
御歳79才😳😳😳❗️
(2015年時点)
はじめての来日だそうです。

先月スペインはヘレスでお会いして1カ月ぶり。
しかし1年くらいたった気もする。

子供の頃からフラメンコの家族に育ち、
アニー先生と共にヘレスのブレリアを
伝えにやってきました。

九州から東京まで
10日ばかりを毎日ハードスケジュールをすごし
疲れナシ、時差ボケなし、
日本の食べ物おいしくよく食べる。

ものすごく元気で楽しそう!

自分のエネルギーで立つ、ってこういうことなのね、
と目の前で教えてくれました。

そのZorriおじさんのお話✨✨✨😃

ビール飲みながらボヤッと聞いてたので
マチガイもあろうが忘れるよりマシ、
と以下に備忘録書きました。

彼はパケーラ デ ヘレス
(ヘレスを代表する唄い手のひとりで、
その唄のみならずその存在そのものが
爆発的怪物的偉大なアルティスタ女性)
の一族(いとこだと思う)。

Zorri24才の時にパケーラ座長のもと、
3カ月旅して廻る(場所どこだったか、スペイン国内)
一座に踊り手として参加した。

この頃(1950年代)は、
オールフラメンコな一座ではなく、
クプレを唄う人やコメディアンとかも一緒の
ヴァリアーダ
(逢坂剛さん編纂の『スペイン読本』に入っていた読みものでは『寄席』と訳されていた)という形式だったそう。

一座のフラメンコメンバーには
当時16才だったパコセペーロ(超ベテランヘレスギタリスト)、
クーロデウトレーラ(こちらもすっごいいいウトレーラの唄い手)、
15才位だったタレゴンデコルドバ、

そしてセビージャからは
ファルーコ(セビージャのフラメンコを代表する一族の家長)と
○○(やはり超大物だったが、ダレだか忘れた)などが参加した。

給金は1日50ペセタ(これがウロ覚え)。
ただしファルーコと○○はその2倍もらってた。
座長パケーラが皆に払ってた。

3カ月の旅の仕事を終え
そのためたお金(5000ペセタ?ウロ覚え)もあることだし、
彼女(当時21才)に『結婚しよう!』
と言った。

そして結婚したのだが彼女は
『もうフラメンコの仕事はしてくれるな』と。

その気持ちを組んで3年前、
彼女が他界するまで公式の場で
フラメンコはやらなかった。

あくまで親戚の集まりとかプライベートな場だけで
やっていた
(うーん、それはスゴイ!とReiko驚いた)。

その頃、甥のホセリート メンデス
(唄い手で、教え方も素晴らしく、レイコはさんざレッスンしてもらった)に連れてってもらった初めてのロシオ(巡礼です)。

そこにはヘレスのフラメンコのアルティスタの
集まるカセータ(巡礼小屋、というか)がある。

ここで5日間のフラメンコフィエスタに参加した、
あれあれ❗️
あの日々がこれまでの人生で
イッチバンタノシカッタなあ💕💕💕
(うっとりした様子で)

ああ。
こういう話しを聞くのとその表情に接するのは
ほんと楽しいなあ、
と思ったのでした。

以上。

(その27に続く)

前のハナシは
上記メニューより
「イタリアで見た過去生と直後の事件」
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イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その25

3日間のローマから日本帰国までの奮闘記
の後日談ーその2、である。

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夜中の3時。

どんどんと左腕が重くなる。
布団に沈みこむようだ。
左腕に触ると〜。
感覚が、ない!

どういうこと?
ジブンの腕ではないみたいだ!

鉛のよう。
まるで義手に触っている、みたい。
眠れない・・・。
トイレに行こうと起き上がろうとした。

え?
左腕が持ち上がらない!
なかなか起きあがれない!!

わたしの取った動作はこうだ。
まず右側に転がり
なるべく胴体の上に左腕を乗せる。

そして布団に右腕をつき
少しずつ壁によりかかり
ようやく座った姿勢を取る。

そこからだんだんと
また右手を使って立ち上がるのだ。
わたしの左腕はまったく用を果たさない。
今やまったくのお荷物のようだ。

トイレに行こう、と思ってから
ゆうに15分はたっていた。

そんな調子で夜が明けた。
ほとんど寝ていない。

日が昇ってからというもの
「まるでジブンの腕ではない感」は
やわらぎ、
左腕を取り戻した感じになった。

この頃 呑気に予想したのは
シジュウ、いやゴジュウ肩かな?
なんてことだった。

イタリアでアレだけのコトが
あったんだからそりゃ疲れも出るさ
仕方ないよなあ、
と気楽に構えてた。

痛みと違和感はかかえつつも
昼間はなんとか生活出来ていた。

そしてまたその日の夜🌉。
そいつはまた夜中にやってきた。

また「まるでジブンの腕じゃない!」
という感じ。

例によって起き上がれない。
動かせない。
そして横たわっているそのポーズが無理。
激痛。
つまり寝ていることも出来なくなった!

仕方なくリビングの安楽椅子に座る。
腕を下ろしていると
痛みは少し和らぐ。

そのまま夜明けを迎えた。
こんな調子でどうなってしまうのか⁉︎

とりあえず医者に行ってみよう。
仮眠をしてから
ネットで調べたご近所の医者へ。
こんなコト初めてで
何科にかかればよいか、
から調べる必要があった。

「これはヒドい ゴジュウ肩なんでしょうか?」

医者はわたしの左腕をアレやコレや
動かす。
これが今昼間は
意外と動かすことが出来る。

その動きを見て
「いや、違う」と医者。

「これは何らかによる麻痺、です」

「!😳
ではどうしたら?」
藁をも縋りたいわたし。

「原因を調べたいので
首のレントゲン撮らせてください」
とのこと。

そうだ、いつも医者にかかると
原因を調べるんだったな、と思いだした。

で、レントゲンの結果に医者は〜
「首ではないのかっ(悔しそうに)。
首の骨はキレイです。」

よかったではないか。
異常がないなら。

原因がわからないコトに悔しがるより、
異常がないコトに喜んでほしいっ!

そんなこんなで
これ以上調べるには
CTだったか撮る、というコトになった。
筒のような中に入って撮影するアレ、だ。

その医院にその設備はなかったので
翌日、検査専門の別の機関にかかるコトとなった。

とりあえずたんまりともらった
内服の鎮痛剤、そして鎮痛効果があるという貼り薬をもらって
また今晩に備えるコトにした。

鎮痛剤、はおろか
普段クスリというものをあまり飲まない。
飲みたくない。

けれどこの時は
「鎮痛剤を握りしめ」夜に備えた。

夜が来た。
それはまた夜中3時にやって来た。
この麻痺の感覚!

鎮痛剤を飲もうが
貼り薬を貼ろうが
それは変わらずやってきたのだ😳😳😳!

(その26 に続く)

前のハナシは
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イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その24

ここからは3日間のローマから
日本帰国までの奮闘記の後日談、である。
この後も色々あった。

それから
この3日間の前のスターサファイアの
ハナシにいくつもりだ。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

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帰国から22日。約3週間たった。
新たな事件は
忘れもしない11月25日の夜だ。

この頃までにはこの事件にまつわる
いろんな用事を
かなり済ませていた。

例えば
ローマでドロボーに持っていかれた
スマホに代わる新しいiphoneの購入。
なんて快適なの!

操作は早く
写真は美しく
たくさん保存ができるわ!

前のスマホは4年以上使っていた。
早く変えろ、
というドロボーからのメッセージだったのか?

大きかったのは
とられたもののリストを
保険会社に申請したら、
かなりの金額の保険がおりたコトだ。

特にスマホの申請を忘れていたら、
保険会社の人が「申請した方がいい」
と教えてくれた結果、
○万円の査定がついたのは大きかった。

勝手に
もうこのスマホは二足三文だろう、
と思いこんでいたのである。

おかげで、一緒にアッシジ近郊から
ローマまでのタクシー代、
仲間達に返すことも出来たのだ。

盗られたカバンに入っていて
また買う必要のあるもの、
ほとんどこの保険でカバーが出来たのだ。

もう無ければ無いでよい、
というものもかなりあった。
電子辞書とかね。

保険のおかげでホッとしていた。
大騒ぎの末
プラマイゼロ、という感じだ。

あ。
もう用は済んでるからと
忘れちゃいけない、
と面倒だけどしかりと済ませたのは

ローマの日本大使館への
レイコ戸籍謄本原本の送付。

なんと言っても
またローマに行く必要、
あるかもしれないしね。

まさか学生時代の初海外旅行以来、
2年続けてイタリアに行くことになるなんて
夢にも思っていなかった。

Flamencoならスペインだし
瞑想ならインド、
に行くのはありそうな気がしていたけど
イタリア、かあ、という感じだった。

それもこれも
スターサファイア エナジーワークの
ため!

というわけで今後の人生
またイタリア、ローマに行き、
そしてまたドロボーにあわない
とは限らないからね。
そしたらまた日本大使館だからね。

さて、11月25日のハナシだ。
なぜこの日だった
と鮮明な記憶があるかというと、
もはや懐かしい、
でもとっても会いたかった

Flamencoは
ブレリア デ ヘレスの
お師匠さん、
アニー先生。

その傍らにいつも居たアフィシオナード
でありアルティスタ、
Zorriおじさんと
日本で感動の再会を果たしたからである。

10月はじめ、
わたしがまずこの旅で
目指した目的地、

スペインは南のアンダルシア地方
ヘレス。
このFlamenco震撼の地から
来日したのだ。

アニー、Zorriのあまりに
MUY Flamenco、
つまりとってもフラメンコである
魅力については
別の記事に譲るコトとする。

この人達が日本に来る、
なんてコトは滅多になく
Zorriおじさんに到っては初来日だった。
御年80歳にして。

旅行保険、なんてかけるの大変だった、
と聞いた。
そんなハナシも別の機会にゆずろう。

とにかく滅多にない機会に恵まれ、
よいタイミングで会いたい
人達に再会した
なんともラッキーでめずらしい
夜だったのである。

この日はしかもレッスン、などでなく
fiesta、フィエスタであった。

これは言ってみればFlamencoの
パーティだ。

わたしは嬉しくて、
いつもは飲まないビールを
ススメられるがままにグイグイ飲んだ。

お酒をあまり強くはない
レイコだが、
スペイン、特にこのヘレスに
行くと 文字通り「ヘレス」という名の酒を
飲むことになる。
結構これは好きなのだ。

日本ではシェリー酒、と呼ばれてる。
ティオ ペペ、とかは日本でも有名だから
皆もよく知っている名前だと思う。

ヘレスはこのヘレス、
つまりシェリーが作られている
土地なのである。

と同時にFlamenco震撼の地であり、
古い歴史を誇る、
セントロでは
人々か遺跡の中で暮らしているような
古く伝統ある街なのである。

で、ビールは
なぜかこのヘレスより、ワインより
酔っぱらってしまうのである。

アルコール度数としては
ビールの方が低いのにね。

で、ビールを飲んで帰って
寝たら。

なんだかカラダにあわない、
アルコールがカラダに残っていて
軽い神経痛みたいになっていた。

特に腕。
お酒、特にビールを飲んだあとに
こんな風になるのは
これまでもあったから、
別に心配していなかった。

なんだかフィエスタで興奮したからか
寝られない。

もう夜中3時近い。
いつもより左腕が気になる。

そのうちに〜。

(その25 に続く)

前のハナシは
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イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その23


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
で、税関で渡航書を出す。

「この書類は何でしょうか?」
税関のおねえさんが丁寧な口調で
わたしに尋ねる。

この「帰国のための渡航書」
という書類を
見たことがあまりなさそうだ。

ココで最後での
「ローマでかくかくしかじか」の
説明をした。
いくつかのまた丁寧な質問に
こたえる。

「それは大変な事でしたねぇ。
本当にお疲れ様でございました。」

とても丁寧なことば、
というか日本語と
態度でねぎらってくれた。

嬉しい。
これまでの疲れが少し
ほぐれていく気がした。

このあまりに丁寧な日本語
少し文語調かなぁ、という感じに
少々の不自然さを感じながらも。

それでもまだ税関のおねえさんは
三つ折りのその書類を
左手から右、オモテ、ウラ、
と眺めまわしている。

もう見るとこないでしょうがぁ!
とこちらは思うくらいに
じっくりじっくり、と。

そして
書類に目を落としたままで
わたしに聞いた。

「ところで。
このたびはいつ迄 日本にご滞在?」

❗️❗️❗️❗️❗️
衝撃だ。

いったいわたしは
ヒトサマに ナニモノと
思われる姿になって帰国したというのだ!

いまおねえさんが眺めている渡航書
そのものが
わたしが日本人であることの
証ではないのか⁉︎

衝撃のあまり
しばし無言、
コトバがでなかったのである。

無言時間の長さに
おねえさんは書類から目をあげ
わたしの顔を見た。

そこで
ようやく出たわたしのセリフは

「たぶん、死ぬまでですよ。」

今度はおねえさんが無言。
しばし見つめあうふたり
・・・・・。

おねえさんは渡航書を三つ折りに
丁寧に畳み
こちらを正面にしてわたしに差し出し
深々頭を下げた。

「大変失礼いたしました!」

この税関のおねえさんのセリフを持って
ローマから3日間の
このハナシ、ようやく終える。

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
この前に受けたサガプリヤの
スターサファイアのセッション、

この3日間の後日談。
はたまたFlamencoの旅。

何処にむかうか?
また続きを
書かせていただく所存です✨

(その24に続く)
その24
その24

⭐️前のハナシは
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「イタリアで見た過去生と直後の事件」
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最初のハナシからの場合は⇒ その1へ

イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その22

DSC_0833

✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
さあ、
わたしはかくして
成田空港に降り立った!
感動だ✨✨✨

前に見えるはパスポートコントロール。
「日本人 帰国」の
表示が輝いて見える。

お買い物用布バックから
「帰国のための渡航書」を出して
手に持ち ウキウキと列に並ぶ。

ドーハの空港の荷物検査場では
機械に通すのに手提げのひもを
結んで 開いて、
がタイへンだったこの布バック。
ああ、そんなことも感慨深い。

さて、わたしの番だ。
ここまでくれば
今度こそ こちらのもの❣️

もう何も心配いらない、
とゆうゆうとしたキブンで
渡航書を出す。

「・・・(渡航書見ながらしばし無言)」

係の人、当然日本人だなぁ、
なんてことまで感慨深い。

しばらくしてこちらに目をあげたので
またかくかくしかじか、
の説明を求められるかと思いきや。

「すみませんが、この書類の方はココでは
受けつけられないんです。」

「え!(ココでまた一難か?)」
ドキリである。
何かと心臓によろしくない。

「では何処へ?」

「あちらの出国ゲートで聞いてください。」

指し示されたのは
パイロットや客室乗務員さんが出入りしている、一番はじにある、
いわゆるスタッフ用ゲートである。
皆すーすーと通過、しているように見える。
待つ、という姿なく、
列なんてもちろんない。

おおお。
こんな出口から出るチャンスも
今回限りかも。

いそいそとソチラへ移動。
で、また渡航書を見せる。
係の人「お預かりしますので、
こちらでお待ちください」
と、椅子をすすめてくれた。

てことは時間がかかるのか!?
ふたたび不安。

待つこと約10分近く。

渡航書を持って係の人が
戻ってきた。

「お待たせしました。どうぞ!」
というコトで無事通過。

何の質問もなく、
書類には「帰国」のスタンプが
押されていることを確認。

今度こそ!
無事帰国した!と言ってよいのだろう、
と思いつつ。
預けた大きな荷物が
無事に今受けとれることを祈りつつ。

荷物も無事に出た!

あとは税関通過のみ。
いつもながら税金がかかるほどの
買い物などしていない。

だからパスポート、
いやこの渡航書を見せて
ただ通過するだけ
のはず。

(その23に続く)
その23
⭐️前のハナシは
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イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その21

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成田まであと1時間。

ただシートに座っている状態で
何があった、とか
何を思い出した、とかではない。

何もアタマに ココロに
浮かぶものなく
「無」な感じ、から
突然やって来た激しい感情。

怖い!
猛烈に。

「きゃあああ❗️ウワアアア❗️❗️」
激しく叫びたい。
猛烈に。

わたしはこの飛行機の外に出たい!
この狭いところに居られない!!

両手をぎゅーっとにぎり
そこに油アセが滲んで来た。
心臓はドキドキだ。

トイレに入って
鍵をかけて叫ぼうか?

あ、その前にアレだ!
アレを出そう。

スター オブ ベツレヘム。
素敵な名前だ。
バッチのフラワーエッセンス。

「ショッキングな事件があったときに〜」
とうたわれている、

パスポート盗難にあったわたしに
ちょうどよいこのエッセンスを
スターサファイアを共に学んだ友人が
くれたのだ。

この3日間、仲間と離れてから
何度コレを使ったことか。

その時のわたしに
こんなに役に立つものを
即取り出してくれる。

そんな魔法使いのような
仲間達に囲まれていたのである。
ありがたい。
感謝しつつ、瓶を開ける。

あ。ない、
もう一滴も・・・

アタマまっしろ。

もともとこの瓶には
スターサファイアコースに参加した皆が
もうさんざんお世話になったのだった。

あらゆるトラウマ、
直視出来なかった過去、過去世、
それを見たり変容を起こしてきた
イタリア半月間の間に。

だから瓶の3分の一、も
残っていなかったのだけど
この3日間で
それを使い切ったレイコであった。

では、どうするか?
なんて考えに行く余裕なかったけど。
とにかくドキドキし続けている
自然に胸に手を当てた。

あ。
「ハート瞑想だ❣️
今こそハート瞑想だ❣️❣️」

ハート瞑想✨
わたしがスターサファイア以前に
学んだ素晴らしい方法だ。

まずはハートの受容のスペースに
この恐怖を居させてあげよう。

・・・
・・・・
・・・・・
20分くらいこの瞑想を
やったと思う。

ほどなく
「当飛行機✈️はまもなく
成田国際空港に着陸致します。
シートベルトをおしめおきくださいませ」
という例のアナウンスが聞こえてきた。

ほっとした。

余裕が出たのだろう
やけに細かいコトをツッコミたくなる。

「おしめおく」
なんて日本語、あるのかね?
飛行機でしか聞かないなぁ、なんてね。

いつも海外に行くときに
いつもは聞かないフォーマルな日本語、
丁寧な日本語を聞く気がする。

さて、とにかくわたしは
助かった。

この旅の後、
飛行機で個人の事情で
緊急着陸なんてしようものなら
末代まで返済出来ないような金額を
請求されるらしいよ、と聞いた。

そりぁハイジャックされたと
同じようなことだろうから
そうかもしれない。

この時の恐怖感は
大げさでもなく
緊急着陸を要求して
外に出たいような強烈なものだった。

正直アレから1年半たった今も
ひとりでの長距離フライトに
耐えられるかどうか

この時の恐怖感が蘇ったら
どうしよう、
と不安がまだあるのだ。

(その22に続く)
その22
⭐️前のハナシは
上記メニューより
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※写真は
「現代思想 1989年12月臨時増刊号 イスラーム」
P143〜より。

イタリアで見た過去生と直後の事件ーローマパスポート盗難 その20

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レイコの買い物カゴを
ばっ!ととりあげた
空港職員さんのセリフ。

「🔲◉▽✳︎✖︎○〜秉£あらアラんビア⁉︎‼︎」

ナニ語?
アラビア語??

まったくわからない。

が、何か聞かれているのと
勢いよく注意を促されているのはわかる。

あ。
もしかして。

時計を見たら
成田ゆきの便の出発35分前だった・・・。
我ながら呆れる。

ココで乗り遅れては
パスポート奇跡の帰国予定日再発行
にこぎつけた
ローマ3日間の苦労が水の泡。

それも父に
魔法のランプ(としか思えなくなってきた)
を買おうとしていて 乗り遅れる、
なんてどう報告しようがあろうか。

ここでもう
急いで走り出すでもなく。

出たのはため息。
脱力。

職員さんは
「買うの?買わないの??
とにかく早くして!」とのこと。

次いで英語で言ったんだったか。
なんで意味がわかったのか もう覚えてない。

こうなったら
急いでそのランプを買う。

職員さんの「急いでよ!」
の視線見張りつきで会計。

それでもレジの店員さんには
ランプをさすって ナニか
出そうというパフォーマンスを
見せてくれる余裕あり。

さすがだ。

物語では
「何か御用デスカ ご主人様!」
というセリフとともに現れ出でるんだったな、と思い出しつつ

一応「急いでまーす!」と告げる。

「ハイハイ。そうですな。」
と余裕の店員さん。

との問答も終え
荷物を抱えて さすがに小走り。
飛行機に乗り込みシートベルトを締める。

やった!
ココまでくれば
こちらのものさ❣️
という安堵。
無事出発。

座った席は両隣がいらっしゃる
真ん中だったのだけど

前の列の扉のある席は、足が伸ばせる
通常なら追加料金が必要な広い席

が空いてる!
アソコに座りたいわ。

しばし様子を見る。
他の人も移りたいだろしねぇ。
どうしたものか。

そして。
すぐ食事タイムとなり
「シートのリクライニングを
元に戻してください」
という指示があった。

あ、れ?
元に戻らない。

というか留まることなく
シートはドンドンと
後ろに倒れてしまうのだ。
アブナイなあ!
このシートはかなり古そうであるよ。

という理由で
めでたく希望の席に移動。

などと長時間のフライトも
いつもよりわりと
快適に過ごすことが出来ていた。

のだが とにかく成田まで、長い。
約11時間、だったと思う。

10時間くらいは
平穏に過ごしたわけだ。

ところが 成田まであと1時間、
というとこまで来て〜。

(その21 に続く)
その21
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※写真は
「現代思想 1989年12月臨時増刊号 イスラーム」
P143〜より。