初めてのデッサンを通じたメッセージ。
ある人の若い時の顔を写真を元に書いてみた。2.5時間も絵を描くなんて久々。
かなり大変な、でも楽しい時間だった。
わたしはハート瞑想として「誰かのハートを感じる」ために絵を描くことがある(その場合は顔、を描くわけではない)。
それと同じような気持ちでスケッチしてみたのだ。
初めてのことで冒険心に満ちていて、そしてそれを描いたことでその人の本質を感じることが出来て、眺めまくって満足だった。
で、さらに。
ちゃんとデッサンできたらもっと感じれるかも!
と思って数日後の波奈ちゃんアート教室に参加することにした。
そこでまず味わったのは〜。
じぶんでせっかく描いたもの、を消すことの痛み。
誰に言われたわけでもなくじぶんで「これは違ったのだ」と認識し、過去の判断を捨ててまっさらに戻す。そして新たな認識でやり直す。
それをやって初めて前に進むんだ。
これが厳粛なる事実。
このデッサンを通じてそう認めた。
そしてそれはわたしの唄、に対しても同じことが必要なのだ。
なおす、って手放す痛みがある。
新しい認識を得たことの喜び、より前にそれはやってくる。
喜びに変わったときにようやくそれが執着だった、と見方が変わったのだ。
「感じること、感性を育てる」みたいなことと、デッサンは別、逆、みたいなハナシも、子ども時代からよく聞いた気がする。
形を取ることを重視するあまりに子どもが感性を失う、犠牲にするみたいなことだ。
果たして
アチラを取るとコチラが立たぬのか?
だけど今のわたしはもうオトナだから、その両立が出来るかもしれない。
そんな可能性を感じたのだ。
何を捨てて新たにし
何を持ち続けることが
今のじぶんにとって正しいのか?
その判断がそろそろじぶんで
出来るんじゃないのか?
人の意見は有用な部分だけを
受け取らせてもらい
じぶんにとって害になるもの
役に立たないもの
は識別出来る
そうして
じぶんの道をじぶんの脚で
歩むことが出来るだろう?
アートの神さま
あるいは わたしのハート♡は
きっとそう言ってる気がした。
波奈ちゃんの言ってた「消すのも描くのと同じ(進んでる行為)」と言う言葉が忘れられない。
それにじぶんで価値を与え続けられるか?
「ありのままを見ようとする(デッサン)」ことはまたまさしく瞑想だった。
わたしはじぶんをジャッジせずに
じぶん自身をただ観る。
わたしはそのように在りたい。
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