泪橋と銀ちゃんとFlamenco。

泪橋。

ここに通りかかって

「こころのヒダヒダに容赦なく触れてくるなにか」を感じて

すでにそこで泣いてた。

「泪」と書いてなみだ、の文字見て

もしかしてここは

「あしたのジョー」

の地なのかなあ、とこの時思った。

銀ちゃんのお別れ会のことを書く。

そもそもそんなに銀ちゃんを

知らないわたしが

それに行くの、どうなのかな?

って思いつつ行った。

そうそう何度も会ったことなくても

あまりに印象深い人

忘れられそうにない人

わたしに何かを残して行ったなぁ

と感じる人って居るもんだ。

彼はわたしにとってそういう人。


彼には「銀コン」と名づけられた

ファミリーステーションにも例えられるようなワークに何度か

参加させてもらった、という縁。

そして2年前だか

そのワークのことでちょっと、

いやもしかしたら大きく

すれ違った。 

そしてそのままになってた。

わたしがわるかったのかなぁ

どうかなぁ、

なんて考えてもはじまらないようなこと。

わたしはああ見えて

とても繊細かもしれない

銀ちゃんを

傷つけたのかもしれない、

という思いがある。

それが気になっていた。

ああ、もうこれで最後だもん。

とにかくこの日行ける状況なのだから行くことにした。


で、行ってみたら。

とってもいい雰囲気で、心温まる会で。

誰ひとり義務感からそこに居るような人はいなくて

なんだかとても優しくて。

正直、感動した。

それなのに、だ。

あの身に覚えのあるアウェイ感!

普通の葬儀同様に読経が済んで

そしてみなさまのスピーチが済んで

それが終わった途端、

もうあと数秒もそこにいるのが耐えられない

いたたまれなさ。

すぐにひとりでその場を離れた。

泪橋。

来る途中まずここで大きな結界を感じた。

そこからその先に入るのがとても大変だった。

後から調べたら〜

明治の初期まで
泪橋を北に渡った先に刑場があったとのこと。

処刑される罪人が泣きながら渡る橋、だそうだ。

そして家族ともそこでお別れ。

橋の下の思い川は今は暗渠で
一見、大きな道路の交差点にしか見えない。


そもそも駅からどう歩いて行き着くやら

Google mapがありながら

さっぱりかん、とわからなかった。

あそこがどうやら

山谷というところらしい、

と気づき始めたのは

お別れ会で

NHKだかの人が話したとき。

この場所は〜、だったか主語は忘れたけど

「外の人をなかなかいれてくれない」ので云々、

のはなしで気づいた。

たぶん取材が、ということなのだと思う。


象徴的な意味で、だけれど〜。

どうやら銀ちゃんは

その橋だか境界の「向こう側」から出て
「こちら側」の人達をも助けに来たのかもしれない

と勝手に納得した。

で、帰路ひとり会場を出て

行きの道すがら見て入るべし、と決めてた「カフェバッハ」でコーヒーを飲む。

最近にわか「素敵な喫茶店探検家」になっていたわたしとしては

対応のしごくキチンとした

店内美しく、ごくごく美味しい店だった。

ところが、だ。

理屈では文句のつけようのない

この喫茶店にありながら

再び

「どうしようもない強烈なアウェイ感」に襲われる。

15分で退散。


コーヒー飲みながら

ネットで山谷のエリアを調べたわたしは、日の高いうちに

この地をもっと見るべし、

と喫茶店を出て少し来た道を戻った。

すると、、、


おお。

ここが

ホームレスの聖地の公園だろうか?

と思しき光景が目の前に現れた。

わたしには

足を踏み入れる勇気など、

とても出ようもないその公園には

実に整然とブルーシートの家が並んでいた。

その意外なまでの

「整然さ」に

余計「結界」、もしくは「境界」を感じた。

山のような空き缶をオブジェのように、これまた整然と積んだ自転車が、ふわっと飛ぶように走っている。

この人達にはこの人達の生活があり

世界があり

たぶん世界観がある。

それは尊重されるべきものだなぁ

簡単に他所から足を踏み入れる場所ではないなぁ、

と感じた。

その公園の隣には大きな神社がある。

玉姫稲荷神社。

これがまたなんとも雰囲気があり

またちょっと泣きたくなる。

その神社の摂社、「口入稲荷神社」があり。

そこには

「人として最も大切な衣食住をお守りくださいます」と解説あり、

やっぱり!の思いだった。

そして本社横に「あしたのジョー」の写真あり。

このお社でも

これでもかあ!

というほどあの場所の空気を味わわせてくれた。




それではもう帰ろう、と駅に向かうことにした。

夏至前日のなんだか迫力のある美しさの紫の空の色は

まるで銀ちゃんそのもの、みたい。

花を買えたら紫のを、

と思って結局買わなかった。

けどその色、その空!

の一致にまた衝撃を受けた。

まるで銀ちゃんが

こちらの帰り道を送るようなもの。

さて駅に着いて。

夕飯すませようとデニーズに入る。

こういうチェーン店ならもうここの空気感を感じることはないだろう、

と思っだけれど。

予想はあまかった!

トイレに向かうドアを開けたら、

怪我をしたおじさんの姿あり。

ドアがなかなか開けられなかったらしい。

わたしが開けたら

「ありがとな。」と。

そのなんとも憂い、湿り気を帯びた寂しそうな哀しそうな笑顔。
そしてチョット怖い。

映画ではああいうの、見たことある。

でも現実にこういう人と自分がすれ違う、なんてありえない

と思ってた。

結局ここでも

やっぱりまだ異界に居たようだった。


それでわたしにとって

「身に覚えのあるアウェイ感」って何か?

それはフラメンコの現地の世界なのだ。

わたしが憧れる

カンテ(フラメンコの唄)の源が湧き出ているであろう世界、なのだ。

それはわたしにとって

最も「人間臭さ」を感じられるものだ。

そして繊細さと美とユーモアと

人間ゆえの愚かさと 強さと弱さと

誇りと尊厳と

いろんなものを内包する奥深きものだ。

カンテは元々ヒターノのものだ。

フラメンコも元々は一族の関係者、内部の人たちだけの秘儀的なものだ。

ヒターノ=スペインにやってきたジプシーだ。

そのジプシー部落の世界だ。

あの山谷エリアに連なる元々は日雇い人夫用とかだった安い宿に、
いまバックパッカーの外人が集まっているらしい。

その外人をスペイン、

その南の南のアンダルシアでやっているのがこのわたし、

なのだろう。

ヒターノ=スペインのジプシーは

インドあたりから500年以上かけて

15世紀あたりに

スペインの地にやって来た。


なんだか急に、銀ちゃんが

ある意味ヒターノに思えてくる。

銀ちゃんがわたしに残していったのは

優しい、ってどういうことか

そのひとつの形を

「こういうのだよ」ってずいっと

差し出されたような感じ。

それはやっぱり男の優しさ

みたいなのの

ひとつの形でもあって

なんか言葉にするとつまらなくなっちゃうけど

そういうものをトランスミッションされた気がする。

わたしにとってこれまでそれに似たものがあったとすれば

それはフラメンコなんだなー。

この泪橋の湿り気と

異様なまでに乾いた土地のフラメンコとは

まったく対極なんだけどね。

銀ちゃんは一見明るく強そうで

なんか究極の人の

優しさと

大事にしないと

壊れてしまう繊細さが内包されていて

「本当のじぶん」に向かう

隠されているように見える道筋にを照らしてくれるような

つまり

「真実の瞬間」を

キラッとさせるようなことが

出来る存在。

誰かが

「銀ちゃんはいつも旅をしていて、今回また別の旅に出たくなったんだ、って解釈する」

って言ってた。

本人の体はもう居ないから

何が本当かなんてわからないけど

わたしもそれがピッタリだなぁ!

って思ったわ。

あの時銀ちゃんを

傷つけたかもしれない。

どうかゆるして欲しい。

他の人にもわたしはそんなことをしているんだろう。

そしてわたしも

たくさん傷ついてきた、という思いがある。

でも生きてるんだから

怖がらずに
人と触れ合いたいね。

傷ついた、という思いがあっても
決して傷つかない場所を持っていることを
その場所ハートではひとつであることを

こうした体験で思い出す。

今わたしは

そんな思いのわたしに

とってもとっても

優しくしたい。


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
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6月30日(水)14時〜 葉山にて。

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ー傷ついたフィーリングとハートで出会うと起こることー

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